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カリフォルニア州マウンテンビュー在住のソフトウェアエンジニアがいろいろ書きます。

映画「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を見てきたので感想書くよ

オール・ユー・ニード・イズ・キルを観てきた。かなりよかった。

やるべきことをすべて遂行した傑作だと思う。どう頑張ってもハリウッド以外では実現できない領域の業であり、映画スタッフの物語への理解がとてつもなくうまくいった好例だ。

なぜこの映画が面白くなったかというと、「観客が考えること」を先取りし、常に期待以上のシーンを見せながら予想を裏切り続けたことが勝因だろう。

原作がステージ制のアクションゲームだとしたら、映画はInfamousのようなオープンワールドだ。戦場から逃げてもすぐに殺されはしない。少し考えて工夫をすれば、基地から離れて自由に動き回れる。しかし自由度が高まったからといって難易度は下がらず、ゴールが難関であるが故に実現はほとんど不可能に思える。無理にしか思えない目標に向けて、何十、何百と試行錯誤を重ねて、プレイヤーたるウィリアムが少しずつ成長してゆく、という展開は、共感できるし、描かれなかったシーンを自然と想像してしまう。

「ここで基地から脱出したら?」

「将軍と交渉したら?」

「あえてリタと会話しなかったら?」

思いつくだろう選択肢の多くは実際に試され、そして失敗する。やりたいことを全部やりきっているというのはそういうことだ。観客が想像する可能性はすでに予測されている。だから僕はやられたと感じ、そのストーリーに巧みさを覚えた。

そういえば、映画でのゴールは原作と違い、「ギタイのボスを倒すこと」なのだ。物語全体の目的が異なるので全然違う話にならざるをえないのだが、そこが本作のカッコイイところで、原作の原作たる要素を保ったままアップデートできているのだ。

原作では最終局面で描かれる、コーヒーのエピソードがある。映画では中盤で、オマージュ(むしろセルフパロディ?)ともとれる展開がある。

農家にたどりついた二人が一息つき、ウィリアムがリタにコーヒーを淹れるシーンだ。僕はあれでもうエンディングだと思っていた。その予想は当然ながら裏切られるのだが、ずっと汗臭い基地と薬莢が跳ねるビーチばかり見ていたところでようやく辿りついた穏やかな無人の農家には、「あっこれはちょっと違う展開になるぞ?」と思わせる説得力があった。

それからステージは峻厳な雪山や慇懃なコンクリートの司令部に移行していくわけだが、この映画の転換点がコーヒーを淹れるあのシーンにあるのは確かだ。何度目かのリタの死と失敗に直面したウィリアムは、リタに頼らずに敵を狙う覚悟を決める。

原作の一番のポイントは「練習したら強くなる」「強くなってもどうにもならないことがある」「どうにもならないことがあっても生きていける」だと僕は勝手に思っている。映画での農場でのシーンと、そこからのウィリアムの行動は、原作の根幹をとらえていた。

やるべきことはすべて行い、それでも突破口が見つからない状況下で、記憶と精神は疲労してゆく。そして不可視の敵にひそかに囲まれていたという絶望。そこから、ウィリアムは立ち上がった。元上官の妨害(理解してくれたかに見えた直後、全力で予想を裏切ってくれる。そこがまたいい)やギタイの猛攻にさらされながらも目的のために執念深く策を練り、試行し、突破口を開いてゆく。

絶望を知り、頼りない中年が戦士に変わるかっこよさ。主役がトム・クルーズでよかった。最初は「おっさんが主人公であの物語成り立つのかよ」と浅はかに考えていたのだが、甘かった。おっさんはおっさんで、超かっこよくなれるのだ。