428 〜封鎖された渋谷で〜 の感想
428 〜封鎖された渋谷で〜 をクリアした。
端的に感想を述べると、求めているものとは違った。
パズル的な試行錯誤の楽しさはある。ここまで高レベルのノベルゲームはそうそうリリースされないだろう。しかし、小説として読むと、全然入り込めない。自分がノベルゲームをプレイするときはいつも「ちょっとすごい小説」を期待して読み始める。その観点から見ると、428は僕が望んだゲームではなかった。
どうして期待と違ったのか
入り込めなかったのは、キャラクターの行動理由が陳腐なことと、プレイヤーが彼らの感情を把握できるよう、過剰にわかりやすい神の視点で物語が進むからだ。
誠実な小説なら、キャラクターの目的や思考に読者が納得いくよう、丁寧に背景が語られる。だが428ではそれが深く描かれず、とってつけたような安直なエピソードが行動原理として提示される。
ゲームシステムを考えると、それも仕方の無いことだと思う。428において、プレイヤーは第三者のアングルで物語に入り込む。複数のキャラクターの思考を覗き込み、選択肢から答えを選ぶ。視点のジャンプは頻繁で、クリアまでには何十回もの切り替えを行わねばならない。当然ながら、迷いそうになる。キャラクターの目的、抱える問題、人間関係、それらを何度も思い返しながら進めることになる。だから、すぐに理解ができるよう、陳腐にも見えるエピソードでキャラクターの目的が描かれる。
思考や背景を過剰に説明する文体も、即時のわかりやすさを優先した結果使われたものだろう。制作チームは最善の策をとったのだ。ゲームとして楽しめるよう完成するため、小説としての味わいをあえて消した。だから、428は安定して面白いゲームになったし、小説にはならなかった。
カナン編
なお僕はカナン編もプレイした。こっちは僕が求めていた「ちょっとすごい小説」だった。そして完全に奈須きのこワールドだった。
カナン編は428本編の実写画像はなくなり、キャラクターと背景は作画で描かれる。立ち絵はなし。イベントCGのみで、静止画像をパンさせるアニメーションが頻繁に使われる。
で思ったことなのだけど、立ち絵はなくて正解だった。ノベルゲームとしてプレイヤーを没入させる目的に対し、立ち絵はむしろマイナス要素になる。僕がいま考えている新作ノベルゲームがあるのだけど、それも立ち絵なしで作ろうかと思っている。あるとしても、表情を強調する使い方をするだろう。